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極私的・現代演劇アーカイヴ


update 2019.01.15

岸田戯曲賞を読む岸田賞選評補足▼雑誌掲載戯曲一覧

岸田戯曲賞を主催する白水社のウェブサイトには、各年の候補作と受賞作およびその選評が掲載されていますが、第43回(1999年)以前の選評は未掲載です。
当ページでは、未掲載選評の一部を原典より転載いたします。一部とするのは、法律に定められた引用の範囲内に留めるためです。

〈引用のルール〉
・原則として、受賞作品に言及した評言のみを掲載(該当作なしの場合を除く)
・引用の分量は全体で、原典の三分の一以下。
・引用部は「」で括り、文言の省略をする際には~を使用して示す。
・出典を明記する。

第01回(1955年) ~ 第10回(1964年)
第11回(1965年) ~ 第20回(1976年)
第21回(1977年) ~ 第30回(1986年)
第31回(1987年) ~ 第42回(1998年)

第21回(1977年)
該当作なし

選考委員
     評言     
石澤秀二
「結局、私は二作品にいちばん興味を持った。小松幹夫作『雨のワンマンカ―』と深瀬サキ作『則天武后』である。団地に向う通勤バスの車内という設定は、きわめて象徴性がある。かつての"家馬車"的感覚は薄れ、不特多数の人間が乗り合せ、スピードに流される生活が現代である。しかし、劇的にみて、せりふ内容と展開にスピード変化の感覚、危機感覚がとぼしい。設定が露骨のようだ。
『則天武后』は、前者とは逆に"動かない"ということを熱情こめて書きあげた力作だった。」
「筆力には力がある。しかし書きすぎではなかろうかではなかろうか?」
田中千禾夫
「残った五篇のうち、台詞が主になっているので興を寄させられたのが、上聡氏の『光の翳』と深瀬氏の『則天武后』である。然し前者は、筋を作り発展させる為の外側の条件が整え過ぎ、人物はそれに操られ勝ちであるので、文体が現実をなぞっている恨がある。」
「後者は、文語体的素養を駆使して彩った絵巻の如きもので、その限りでは美しく、言葉の綾取りは見事である。惜しいことに、リズムは平板である。重層的に進行するにつれて新たな化合を生むという劇的要素に欠ける。」
別役実
「我々は、今あらためて「リアリズム」について考え直さなければいけない時期にきていると思う。もちろん、近代劇が言うところの「リアリズム」ではない。つまり、戯曲が内包する状況のリアリティではなく、それが舞台に展開される上でのリアリティのことである。更に言えば、ドラマであれショウであれ、それが拠って立つ根拠に関わるリアリティである。演劇が本来その内に持つ原始的なエネルギーは、この「リアリズム」なくしてはあり得ないものだからである。」
森秀男
「最終候補に残った五篇のなかで、わたしがいちばん近くまで歩み寄れたのは、太田省吾氏の『硝子のサーカス』だった。転形劇場の舞台を見て、かなり引き込まれたのだが、戯曲として読み返してみると、書きたりていないという不満を感じた。棺を担いで現れる二人の男の長い対話はよく書けているし、棺のなかから起き上がった女と兄との対話もイメージの喚起力があった。しかし、女が結婚して家庭をもち、子供たちが登場してくる後半は、破綻とまではいえないまでも、構成もせりふも弱くなってしまう。そのために、終りに二人の男がふたたび現れて、はじめと同じせりふをくり返すのが効いてこないのである。」
八木柊一郎
「~太田氏の『硝子のサーカス』が、私には一番興味深い仕掛けに見えたが、どんな舞台を想像するにしても、すこし長すぎるように思われた。戯曲としての凝縮度と演技との一定の関係が、公理的にどうしても存在するとすれば、その意味で、『硝子のサーカス』は、仕掛けとしてまず失敗している。」
矢代静一
「いづれにせよ、これら五本の作品は、最後まで競いあったのであるから、たいそう月並みな言い方になるが、次作を期待する。それにしても、戯曲という奴はむづかしいものだと、実作者としてしみじみ思った。」
山崎正和
「なかで、深瀬サキ氏の『則天武后』は素材への執念を感じさせるうへで、私には刺激的な作品であった。現在といふ時間を二つに割ってその中に過去と未来をはさみ、全体として流れない時間を描かうといふ試みも、意欲的な方法意識だといへる。しかし、遺憾ながら、その素材と方法への意欲がかち過ぎて、せりふの筆がそれに伴ってゐないといふもどかしさを禁じ得ない。何より辛いのは、中間に挿入された時間の進行がそれをはさむ「現在」の流れよりも遅く、たぶん作者によって意図された「間狂言」の効果を裏切ってゐたことであった。」
『新劇』昭和52年/1977年3月号選評掲載





第22回(1978年)
『小町風伝』
太田省吾

『人類館』
ちねんせいしん

選考委員
     評言     
石澤秀二
「『小町風伝』はたまたま太田氏演出の舞台を先に見て受けた感銘が、作品の戯曲的欠陥を強く私に訴えた。ことに老婆のせりふの多くが「科白として外化されることがない」との指定に烈しくこだわらざるをえない。作者のいうように、音声として外化せず、内的意識としての言語活動はあるにちがいない。」
「しかしその言語が外出されたせりふ同様のことばの羅列でいいのだろうか。換言すれば、せりふやとがきの書かれ方が旧来の戯曲作法そのままで、作者指定の「科白として外化されることがない」の一行で済まされるはずはない。」
「戯曲完成度はむしろ『人類館』が今回は第一等だ。沖縄の人でありながら沖縄を対象化する眼もある。しかしあまりにも沖縄的であることが、県外の者の行動をためらわした。もう一作、知りたいというのが本音である。」
田中千禾夫
「これは沖縄人が初めて自分を、しかも、むごたらしく露呈したものとして、なんとも痛々しい。私は沖縄の怒りとして『人類館』を受け取った。」
「『小町風伝』の作者は、はじめの断り書で、女主人公の殆どの台詞を表面化させないが、内面の言葉として生きている筈だ、として、その内面の言葉を綴った。」
「とすると、父、息子、娘と三人の家庭の場の発声は、私には邪魔になる。サイレント映画の弁士の声みたいなものである。」
別役実
「『人類館』も安定した文体で、沖縄の現実を、単なる政治的図式に終わらせることなく、自嘲の苦さも含めてイローニッシュにまとめあげている点、したたかな批評性を感じたが、最初に加害者として登場してくる《調教師》が、被害者に逆転させられる過程が、演劇的には弱いと感じた。」
「先ず裸舞台に《老婆》が現れ、次いでそれが廃屋に囲まれ、再びまた廃屋が壊されて裸舞台に残されるという過程の、《老婆》のたたずまいとその機能の変化こそが、この戯曲のドラマツルギーである。」
「太田省吾氏は、どちらかと言えばアンチ・ロマンの人であると私は考えているが、それを手がたく受信し、効率よく結晶させる装置については、正確に知っている人のように思う。その意味でこれは、極めて理知的な作品と言うことが出来るだろう。」
森秀男
「活字で発表された上演台本には、老婆の独白や幻想のなかでの対話、それにせりふ体のト書までが、語られないものとして精密に書きこまれていた。舞台とは切り離して読んだつもりだが、全体の脈絡をつけることに捉われて、イメージを造型する力の弱い部分がかなり目立った。太田氏の演出家としての力兩を評価する分だけ、劇作家としての太田氏に辛くならざるを得ないのである。」
「ちねんせいしん氏の『人類館』は、戯曲といての書かれかたからいえば、『小町風伝』よりもすぐれていると思った。過去に事実を下敷きにしながら、時空を超えた構成によって、沖縄の受難の歴史を凝縮させただけでなく、支配と被支配、差別と被差別の意識を逆転させてゆくところに、題材を客体化する眼の確かさも感じられた。しかし、人物の関係が逆転して円環作用をもたらす結末の部分がまだ単純で書きたりていないという不満もいなめなかった。」
八木柊一郎
「『小町風伝』は、そのセリフの大部分が、〈セリフとして外化されることがない〉という注がついており、われわれとしてはその注を無視あるいは自由解釈して、普通の台詞として読むほかなかったのだが、そういう無理をおかしたことは、やはり問題かも知れない。」
「結論だけをいえば、ちねん氏は沖縄人の怨念のみから戯曲を生んではおらず、沖縄の被差別性や劇的諸契機を充分に対象化しており、もし『人類館』という作品が特殊すぎるという論理が正当とすれば、〈日本の状況〉あるいは〈現代日本人の状況〉を扱ったすべての戯曲も特殊すぎるというそしりから免かれ得ないだろう。」
矢代静一
「太田氏の作品について、私がこだわりつづけたのは、主人公である老婆の台詞が、実際に記されてあるのに、ないものとして読んで欲しいという意味のことわり書が述べてあることだ。更に問題を複雑にしたのは、この作品の上演を見た人が委員の中で三人、見ていない人が、私を含めて四人という風になっていたことである。ないものを見た人があるもを再び読むのと、あるものを読みながら、ないものを想像するのとでは、かなり印象が違う筈だ。」
「ちねん氏の作品は、冒頭から数頁読んだだけで、切味あざやかな才能の豊かな人であることは分った。戯曲のかなめである相対的な発想の持ち主であることも分った。次作は、小品でなしに多幕物を手がけて欲しい。」
山崎正和
「しかし、戯曲は本質的に作者の演出とは別箇の存在であり、文字によって書かれた以上、その文字が許す範囲で他の演出を受け容れるべきものである。」
「この問題さへ解決すれば、『小町風伝』は作者の前作に比してイメージも適確豊富になり、若干軽量のうらみはあるが、その感性の清潔で、論理の骨組の確かなところが、佳作の域を越えるものと評価できた。」
「ちねんせいしん氏の『人類館』は、なほ主題へのもたれかかりが目立ち、また、この一作だけでは作家賞としての本賞の主旨に適ふかどうかの疑問があったが、私としては委員間の多数意見に従ふことになった。」
『新劇』昭和53年/1978年3月号選評掲載





第23回(1979年)
『肥前松浦兄妹心中』
岡部耕大

選考委員
     評言     
石澤秀二
「一方、岡部耕大の『肥前松浦兄妹心中』は若々しい活力に満ちていた。」
「既成の作劇手法に捉われることなく、敢えて言えば、鮮やかな原色に彩られた映像的イメージを基底にして劇画的手法で描き切った力わざが、本作品の場合、結果的に戯曲的バランスも生みだしたと言えよう。しかし後半部分は、拡散・放射するイメージを支える劇的エネルギーの凝縮度に欠ける。したがって前半部分の繰り返しの印象が強くなる。らせん的展開の飛躍または深化を一層、のぞみたいのだ。」
井上ひさし
「岡部耕大氏の力業の第一は、右に列挙した月並みなことば(もっといえば、まことに陳腐きわまりない虚仮威しことば)の持つイメージ喚起力を巧みに使いこなし、また組み合わせて、ひとつの世界を築きあげたことである。
この安手で、厚塗りの世界は、氏が創出した「松浦方言」でさらに寸分の隙もなく塗りかためられ、とたんに真実の光で輝きはじめた。」
「言語操作の術に長けた新しい才能の登場に敬意を表する。ただし、氏の力業はいまのところ主としてバラエティ構成作家(ことば=イメージをある観点から取り集め、再構成して新しい世界を創る)に注がれており、そればかりが岡部耕大の世界ではあるまい。」
田中千禾夫
「その言葉は、その泥や土を吸い込んで雑草の如く繁り肥った地域後、産土後である。伴奏はエレキではなく、ハモニカである。
近頃、是程、豊饒な国産後を浴びせられたことはないし、可愛いく稚拙に放埓な官能の陽気に笑わされ、反面、それが積み重なり屈折した宿業の重い情念に掻き廻された作品は無いだろう。台詞で焼身自殺の極楽行である。」
別役実
「今回は『肥前松浦兄妹心中』が、やや群を抜いていたように思う。何よりも、肥前松浦という風土に対する思い入れが重層的であり、そこに蝟集する人々を一見フットワークだけで展開させているように見せながら、その実、風土に従って重層化された群像に置きかえてみせるあたり、凡手でないものを感じた。また、二つの心中事件と三組の兄妹が形造る縦軸の重層性と、廃坑を解体する勢力とそれに対抗する勢力との横軸のダイナミズムも、それぞれ見事に機能しあっているように思えた。」
「肥前松浦に更に固執し、その風土に深く根ざすことにより、そこを「我等がマルセーユ」に仕立てあげることが、この作者には可能であり、私もそのことを期待したい。」
森秀男
「岡部耕大氏の『肥前松浦兄妹心中』が孕んでいるエネルギーの豊かさに惹かれた。「肥前松浦」という、この作者にとって抜きさしならぬ原光景をえがくために選びとられた方言が、力強くうねる劇言語として使いこなせされていることが大きい。」
「風土が単なる風景に終らずに、歴史を存分に吸いこんだ重層性をもっていることも、作品の奥行を深くしていると思われた。」
八木柊一郎
「岡部氏の戯曲は、そのト書の書き方もそうだが、ドラマの流れは映像的発想にたよっていて、ある場面での登場人物の全体にこだわらない、というより、こだわらなさすぎる個所がしばしば出てくる。劇画的という非難はそこからくるのだと思う。しかし、故郷の松浦の廃坑と海に沈む太陽を背に作者が現実化したイメージは、最近まれにみる演劇的な言葉に支えられていて、その言葉のひとつひとつは言葉自体として生きており、もはや映像の発想を超えていると云ってよい。」
矢代静一
「作者が手を加えてこしらえたという松浦方言の文体は、魅力的であった。この方言を駆使して、作者は、現代に対するなにかよく分析しきれない鬱屈(取りあえずこういう言い方をして置く)を、この作品の中で思い切り発散させている。ここには青春それ自体が抱いているダイナミックな爽快さがある、更に作者は、抜け目なくユーモラスな会話を、ところどころに織りこんでいる。ただ正直言って、三分の一ぐらいまでは、松浦方言になじめず読み進むのに苦労した。」
山崎正和
「技法は重苦しく、冗舌でもあるが、この不器用さもまた青春のひとつの特質であらう。しかし、青春は、その反面において、軽快に疾走しなければならない。その点、この作品の晦渋は、舞台化に成功し得る限度であって、「新劇」誌の『日輪』は、いささか思ひ余って筆の及ばぬ苦しさを見せてゐる。いづれにせよ、岡部氏には、完全なニヒリズムと背中合せの、不思議な生命の活力があって、それが怨恨としらけにまみれた昨今の青春像にたいして、ひとつ風穴を開けてゐる趣きを買ふことにした。」
『新劇』昭和54年/1979年3月号選評掲載





第24回(1980年)
『上海バンスキング』
斎藤 憐

選考委員
     評言     
石澤秀二
「結局、斎藤憐氏の『上海バンスキング』受賞に消極的賛成をした。作品自体にはもの足りなさを覚えるものの、これまでの作者の地道な足どりを想う時、作家賞としてなら、四人のうち、斎藤憐氏を積極的に推したい気持があったからである。」
井上ひさし
「まず、この作品には、ここ数十年来、あらゆる劇作家を悩ませていた時間の呪縛から解き放たれた、たのしい筆のさばきがあった。ではこの作品は現実の時間の流れに忠実で有りすぎ、安易でありすぎたのか。べつにいえば、舞台の上に固有の時間を創ることをまるで諦めていたのか。そうではない。活字で読んだだけでも、私たちは軽々と戦前、戦中の上海へとぶことができる。」
「つまり斎藤憐氏は、現実の時間の流れに一見、忠実を装い、だらしなく屈服したように見せながら、観客の持つ時間観を計算に入れた上で、新しい時間処理法を発見したのである。作者はみごとに時間の呪縛から逃れて見せたのだ。」
田中千禾夫
「『上海バンスキング』が選に当たったのは、男と女の宿命的な深い情愛を、風俗の歴史的絵模様の中に織りまぜて歌い上げるべく、巧にそして真っとうに拵えた美しさが珍しいからである。恐らく是は、左右に揺れる振り子の一つの極に位置するものであろう。」
別役実
「これは昭和十一年から戦後へかけて、上海で活躍したジャズメンたちの生活を通じ、日本とその時代を見返そうとした作品であるが、風俗描写も場面構成もそつなくこなされ、何よりもジャズに対する作者の思い入れに真摯なものが感じられ、それが感動的であったように思う。
ただ、少しばかり気になったことを言えば、この「過去の時間」を作者が、極めて素朴に、言わば回想風にしか取扱っていないように思えたことである。演劇が、どのような「過去の時間」を取扱ったとしても、それを現在に再構成されなければならないものだとすれば、この自然主義的な時間の流れに、いささかの考慮が支払われても良かったのではないだろうか。」
森秀男
「ジャズに象徴される日本のモダニズムが戦争で崩れ去るすじみちへの眼配りが確かで、それが見かけは軽そうなこの作品の懐を深くした。侵略者の安逸な生活がやがて巨大な前借と歴史によって取り立てられるというところに、歯切れのいいおもしろさを貫く一本の赤い糸が浮かんでくる。しかし、その達者が既成の手法や技巧に納まりすぎていて、劇の時間の重層化を怠っていることには不満を感じてしまう。」
八木柊一郎
「『上海バンスキング』は、劇構造の上ではさして冒険のない。一種の風俗劇だが、昭和十一年から十年間という、たいへんな時間を、上海の日本租界という場所でとらえた劇作術は相当なものだと思う。」
「人物の彫琢は浅いが、人間はこんなものという浅薄さからはのがれ得ている。着想の底に、一応歴史と時間というものが据えられているからで、この戯曲は人形劇の台本として見ることも可能であろう。唯、佐藤信の昭和シリーズの表現世界を知っている私としては、『上海バンスキング』の単純さが惜しい。ジャズを風俗的に利用するだけでなく、たとえば、ビーバップのオフ・ビートのような傾向を劇形式の内部に反映させることはできなかったろうか。」
矢代静一
「『上海バンスキング』は、読み進むにつれて、うまいものだ、達者なものだという感をいよいよ強く持った。台詞も構成も簡潔で無駄がない。けれど、なんだか作者の詐術に乗せられているようにも思え、ダマサレマイゾヨという想いも持った。つまり、一方ではこの作品を肯定し、もう一方では否定するという心理の二重操作をしながら読了したということになる。」
「この作品には良質の感受性がある。岸田賞は小説に於ける芥川賞のようなものだという説があるが、そういう観点からみると、この作品は直木賞的であろう。とまあ、そうしゃべったら、はすむかいにいた井上ひさしがニッコリした。」
山崎正和
「かつて極度に前衛的な作風を示し、「方法」について過度に意識的であつたこの作者が、一転すると、今度は対極まで通俗化を見せたことに、私はある種の感慨を禁じえなかつた。
にもかかはらず、この作品には清潔な透明感があり、その淡い感傷にもみずみずしい健康さのあることが、私の好感を動かしがたいものにした。」
『新劇』昭和55年/1980年3月号選評掲載





第25回(1981年)
『あの大鴉、さえも』
竹内銃一郎

選考委員
     評言     
石澤秀二
「『寿歌』に比べると竹内銃一郎氏の『あの大鴉、さえも』には作劇上の苦渋を覚えてしまう。逆に言うと、そのギコチなさに親近感を感じる。作品としては『寿歌』を第一に推すが、竹内純一郎が銃一郎と改名して再出発する"作家賞"としての受賞には異議を唱えない。」
井上ひさし
「竹内銃一郎氏の『あの大鴉、さえも』は必死の力業である。デュシャンもじりの趣向は必ずしもうまく行っているとは思われなかったが、ガラス一枚を梯子によくここまで展開し得たものだと感嘆した。荒っぽいことをいえば竹内氏にはデュシャンの支えなど要らぬ。劇に賭ける氏の熱意が、これからも力作を生む母胎となるだろうことを信ずる。俳優の肉体性を生かしつつ、観客の耳の「質」をも開発しようと志している氏の仕事に敬意を捧げる。台詞と行動が等価であること、言うは易く実現の難しいこの二つのものの融合を、氏はよく実現し得たと思う。」
田中千禾夫
「異次元の二つ以上の場を同一の枠内に合成した写真は、特異な風景となって、時には触覚的ですらあるほどに躍動する。竹内氏の『大鴉』は、そういう舞台空間で孕まれ、化合的計算で観念図式的に精密に育成される胎児の鼓動で生きているようなものだ。人工的な胎児であり、機械的に純粋な所産である。近年の抽象的観念劇が虚しく発達した極限の見本的美しさ故に当選したと思われる。」
別役実
「受賞作品は、これまでの作者のものとはかなり作風が異なり、「生活感」を吸収して蓄積させるべきベースを払拭した分だけ設定が簡素化され、演劇性が純化されているのに好感が持てた。感覚的に言えば「乾いて」「辛く」なったのである。しかしまたそれによって逆に、演劇性の浅い幾つかの部分を目だたせる結果になっていることも否定出来ないのであり、特にこの空間の奥行きを決定すべき「三条はるみ」のイメージが、構造的にややあいまいである点が惜しまれるところである。ただ、この「透明なガラスを運ぶ」という演劇的発明は、それ自体で評価されてしかるべきものであると、私は考える。」
森秀男
「三人の男が見えない大ガラスを運ぶという緊張感に満ちた設定は抜群で、そのガラス板の重さにひたすら耐えることで繋がり合った三人の関係性を浮かびあがらせる前半には、この作者のせりふの切れ味のよさを存分に生かす力業があった。」
「しかし、塀の向う側に住む元童謡歌手もしくはポルノ女優をめぐって、三人の男の幻想が展開する後半で、見えない女のイメージがはっきりしないために、ガラスとの二重性の構造が弱くなっていることはいなめない。」
矢代静一
「竹内銃一郎氏の『あの大鴉、さえも』は愚意劇である。『寿歌』同様にユーモラスなタッチで進行して行くが、『寿歌』の希求感と対象的に、この作品の背景には、挫折感が流れている。三人の独身者が運ぶ大ガラスは、ふたしかで、もろいが、それ故に、こよなく大事な物で、その大ガラスが割れ、かわりに大鴉が飛び立って行く幕切れなど、私の想像力を刺激した。」
山崎正和
「竹内氏の『あの大鴉、さえも』は、眼に見えぬガラス板を運ぶ、といふ身体的な緊張感で作品の統一を支へ、そのうへに青春の焦燥や不安の感情を盛り込まうとしたものであるが、結果として、その趣向の思ひつきだけが目立つことになつたのは、残念であつた。毀れ物を支へる緊張感と、人物の内面的な葛藤の高まりとが有機的な関係を欠き、身体的な行動の面白さドラマの外枠にとどまつてゐる、といふのが率直な読後感であつた。」
八木柊一郎
「~何かを背負うとかそれをどこかへ運ぶという行為は具体的すぎて、たとえ背負うガラスとその運搬の過程をゼロもしくは無限大とみることができるにしてもなお、行為の劇的な結末をこちらとしては欲したくなる。つまり、『あの大鴉、さえも』の劇構造は、結局においてストーリィ性が必要となる種類のものであり、幕切れのガラスが割れる大音響、ガラスを入れる入り口らしきものの発見、今まで出なかった水の噴出、そして大鴉の飛翔などのイメージが私のいう結末にあたるものになっている。」
「~何かを背負い運ぶという行為のいわば純化し得ぬ性質がそこで露呈してしまった。作者は、水道の蛇口から大鴉を飛ばしたのではなく、大鴉に逃げられてしまったという感じなのだが、この作の中では、そのほうが実は正解であるのかもしれない。」
『新劇』昭和56年/1981年3月号選評掲載





第26回(1982年)
『漂流家族――〈イエスの方舟〉事件』
『うお傳説――立教大助教授教え子殺人事件』
山崎 哲

選考委員
     評言     
井上ひさし
「山崎哲を言語遊戯リーグの新人王であるとほめそやすのは正しい。この作家の、言葉を客体化して、それを自在に使いこなす能力は相当なものだし、とりわけ『うお傳説』に、その能力の運用の力業がよく見てとれる。」
「音と意味との結びつきはもともと恣意的なものであったということが、音と意味とを股にかけて処理こまかに仕上げられた山崎の言語遊戯から見えてくるのである。音と意味とを「意味あり気に」結びつける山崎の手法が、かえって音と意味との結合は本来恣意的なものであるという事実を浮び上らせるのだ。」
唐十郎
※受賞作品に対する言及なし。
清水邦夫
「~すぐに山崎哲氏の『漂流家族』を推したいと思った。いうなれば、ある興奮をもって〈迷路〉へ侵入することができたからだ。たたずまいがひっそりしているくせに、亀裂の走行はダイナミックである。」
「身体が傾いていくことによって、こちらの視線が安定を欠き、いや安定を欠くことをしいられて、まさに見慣れない光景が現出してくる。こういったバランスをくずされるといった方向から〈迷路〉へひきずりこまれるのは、滅多にない体験であった。」
田中千禾夫
「~人生を怖れ憚りながらホーム、家庭を維持しようとする可哀そうな人々の、切実で痛ましい息遣いがヒシヒシと伝わって来る。これが受賞作の『漂流家族』と『うお傳説』である。」
別役実
「『漂流家族』は、例の「イエスの方舟」事件に取材したものであり、土着の風土感覚を喪失した現代人の、とめどもなく漂流させられてゆく事情が把えられているものであるが、その喪失感がいわば皮膚感覚で確かめられている点に、この作者の演劇の独自性が感じられた。」
「同時に候補作となった、『うお傳説』の方は、状況把握のスケールが大きく、部分的には鮮烈な場面が多かったが、構成の面でやや破綻が感じられた。どちらかといえば「作り過ぎ」ているきらいがあるのである。」
八木柊一郎
「~山崎氏の場合は、時に別役実や唐十郎を、下敷というよりも素材そのものとして使いながら、脈絡のゆきつくところには、山崎哲という作家のオリジナルがまことに頑固に立っている。」
「山崎氏はおそらく、作家としての自分の文体の追求ではなく、個々の役者の文体を契機とすることによって演劇というコミュニケーションの入り口を見つけたのである。役者の肉体だけではなく文体を信じるということは、作者の幻想かも知れないが、演劇にとって必要な幻想ではあろう。」
矢代静一
「山崎哲氏の二作品は、読みごたえがあった。島尾敏夫氏や別役実氏のことが、ちらと脳裏をかすめたが、独自な劇的小宇宙を持った人である。文体もしっかりしているし、小道具のあしらい方もたくみだ。」
山崎正和
「家族像のアラベスクを描いた点ではたしかに成功作であり、とりわけ、感覚的なしつこさといふ面では才能を感じさせる作品だといへる。ただし、別役実風の文体はこの作品のなかで消化されてをらず、むしろ、この文体が作品を逆に支配してゐるといふ印象をあたへるのは、致命的な難点であらう。」
佐藤信
「『うお傳説』で、立大助教授教え子殺人事件と島尾敏雄の『死の棘』を出会わせた作者は、これまでの「自らエピゴーネンに徹する」という決意に裏うちされた方法論を、現実と劇への複眼的な批評としてひとつ先へ進ませたと思う。」
「しかし、その成果にこだわればこそ、『漂流家族』のイエスの方舟事件に対する別役実文体については、ぼくは評価を保留したい。」
『新劇』昭和57年/1982年3月号選評掲載





第27回(1983年)
『野獣降臨(のけものきたりて)』
野田秀樹

『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』
山元清多

『ゲゲゲのげ――逢魔が時に揺れるブランコ』
渡辺えり子

選考委員
     評言     
井上ひさし
「野田秀樹『野獣降臨』の枠組は言語遊戯を針として糸として時間と空間を自在に縫うところにある。言語遊戯が場当たりの爆発を行うばかりでなく、新たな神話を推進するための基本燃料となる。」
「渡辺えり子『ゲゲゲのげ』の枠組はねじまがった空間である。その空間は宮沢賢治や江戸川乱歩のそれと似ているが、民俗学的な調理法をほどこした上でねじまげメビウスの環のようにつなぎ合わせる膂力は力強く、無論、結局は作者独創の空間に化けている。」
「山元清多『比置野ジャンバラヤ』の枠組は日常時間の再編である。のっぺら棒の日常時間をいかに処理して、演劇の時間にするか。この困難な作業に作者は立派に成功した。時代を見据える視座の構築にも成功している。堂々としていて大人なのだ。」
唐十郎
「~なにか途方もなくうねる、つまり蠢動する気配を抱かせるのは、渡辺えり子さんの『ゲゲゲのげ』であるという感想を私も持っている。」
「~渡辺さんは、山形出身の、いくらかエグいやり方で馬車馬を怒鳴りとばすかのように、対象を追い詰めてゆく。その過程で、粗さが出てしまうところもなくはないが、一貫して、あるモティーフを散乱したイメージ群の中からくり抜き、そこに、渡辺さん流の視点と息を吹きかけ、不可能な蘇生を試みようとしている。」
佐藤信
渡辺えり子『ゲゲゲのげ』
「豊かな才能をうかがわせる大作ではあったが、戯曲として読む限り、時間の停滞がもどかしい。もちろん、それは反面で作者の視線の執拗さも意味しているのだが、だとすれば、少くともその視線の方向だけはもっと整理されていい。」
山元清多『比置野ジャンバラヤ』
「文体で見る限りどちらかというと文学的な作者の資質は、しばしば意図された明解な構造を裏切るかたちになっている。」
野田秀樹『野獣降臨』
「~自己の文体のみの力で戯曲を成立させようという野田氏の方法は、ひとつの極限に達している。その徹底性が、返ってこの戯曲の重い主題を生み出していることが面白い。」
清水邦夫
「~今回の各候補作品はそれぞれ個性的な作業をしているように思われ、同じ作業に苦しむものとして多くの刺激をうけた。そしてその個性的な作業のなかで、やはり際立った特徴としてはさまざまな時間の層の表出のしかた、それが各自の個性的な演劇宇宙をかたちづくっている印象をうけた。
渡辺えり子氏の『ゲゲゲのげ』はそういった作業のなかで、きわめて時間の層の現れが幻惑的で、しかもそこから見えてくる風景はこちらをふしぎな迷路へ誘んでくれるものであった。」
「野田秀樹氏の『野獣降臨』は、ぼくとしては昨年の候補作よりたどっていける確かな手がかりがあり、とくにラストにかけてこれまで体験したことのない質の興奮をおぼえた。」
「山元清多氏の『比置野ジャンバラヤ』についていえば、その演劇的世界に大変親近感をもった。個人的なことだが、かねてからぼくも造船所という〈場〉に少なからぬ興味を抱いていた。」
「更にあの奇妙な家族構成と造船所のむすびつきは、失礼ないい方になるかも知れないが、ぼくもいつかショートさせてみたい〈場〉と〈人間〉の熱い関係でもあった。」
田中千禾夫
「~今年度の岸田戯曲賞であるが、夥しい「活劇」の中の選手として、一人、または二人、というわけにはいかなくて、三人ということになった。そうしないと現今の全容を明かにすることが難しいのである。夫々に見事に個性的である。聞かれて名乗るも烏滸がましいが、で、三人男(ひとりは女だが)の稲瀬川なるぬ岸田賞の勢揃いが美しい!地下の岸田先生もニタリと笑って見て下さるだろう。」
別役実
「今回私は、野田秀樹の『野獣降臨』を、受賞作として推した。この作品が一番、明確な方法意識を持ち、それに徹底していると考えたからである。」
「言ってみればこれは、プラスチック製のファンタジーであり、しかもそれぞれのパースペクティブが混乱させられているから、この世界では、あらゆる存在は記号であり、行為はゲームであり、関係は幾何学であり、哲学はクイズにならざるを得ない。」
「もしかしたら「あらゆる哲学はクイズにしか過ぎない」という点に、この作品の哲学があるのだと言ってもいいかもしれない。そして、この焦燥感が、この作品の主題である「新たな伝説を創り上げよう」とする言葉を、極めて説得力のあるものにしていることは否定出来ないのである。」
八木柊一郎
「~野田の観客論はおそらく、観客のすべてが完全に空虚だという認識の上に立っている。そういう観客ひとりひとりの空虚を充たしてみせるという野心が同居しており、そこにはやはり、伝説をつくるという作家の普遍的な情熱がひそんでいると私は感じ、『野獣降臨』を第一に推した。」
「『比置野ジャンバラヤ』の、一見職場演劇風にみえる面と、低い姿勢でひたすら現実を描こうとしているようにみえる面には、芸術家が自由に創作伝説をつくるときにおちいりがちな、一種の機械人形的行為を否定しようとする意識がある。そして山元の場合、現実の突破口を探すというところに出発点があるだけに、ドラマは飛翔せず、地を這ってゆく。」
「ことさらアクチュアルな世界をえらんで世界ぎめをした山元は、実をもって虚を埋めようとしたのか、それとも実を借りて空虚が空虚であることを証明しようとしたのか、そのへんのところは微妙だが、山元もまた、創作伝説を批判しながらやはり伝説のつくり方をこころみていると云えるだろう。」
矢代静一
「『ゲゲゲのげ』→淋しくユーモラスな抒情劇。」
「『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』→苦汁を背後に押しやった斬新な社会劇。」
「『野獣降臨』→奔放な劇空間の下で繰り拡げられる乾いたマリオネット。」
「もっとも、私だって私の作品をこのように、ひとからげに概念化されたら不満だが、ことの性質上、このように分類しないと、私の心のすわりが悪いのである。」
山崎正和
「今年の場合、最初に印象に残ったのは、野田秀樹、渡辺えり子、北村想三氏の作品がひとつのグループを作り、強く現代の流行を代表してゐるといふ感触であった。」
「かうした作品に対置したとき、山元清多、小松幹生両氏の戯曲がいかにも律義に見え、少なくとも流行の外にあるといふ印象をあたへることは、感慨深い事実である。」
「この二郡の作品のなかで、私は第一郡をもっとも純粋に代表する野田氏の『野獣降臨』と、第二群においてやや完成度の高い、小松氏の『朝きみは汽車にのる』を推すことにした。」
『新劇』昭和58年/1983年3月号選評掲載





第28回(1984年)
『十一人の少年』
北村 想

選考委員
     評言     
井上ひさし
「物語を探し求める登場人物たちに、エンデの『モモ』の物語をポイと与える大胆不敵な引用の手口に、すこし呆れながら感心した。この作家は「客の顔がいつもよく見えている」らしい。笑わせる工夫(ギャグ)にしても、無造作に書いているように見えるが、実は客との間に周到な契約を結んでおり、なかなかタフな手練れである。」
唐十郎
「北村想君の『十一人の少年』は、彼の作品の中では、老け込みの強い作品だと言ったのは僕ですが、それは、作品の手ざわりに丸みがある、柔らかい感触のある彼の作品の中でも、老成したようにポッテリとしているという読後感から始まっています。」
「恐らく、戯曲に還元の輪を周到に張り巡らした結果でしょうが、なにか、チマチマとしている。そんな印象が、どことなく気になりますが、北村君の、この作家らしい匂いと言うものは、やはり他の作品よりも群を抜いて香りを放っていると思いました。」
佐藤信
「北村想氏の『十一人の少年』は、四作品中最も安定し完成されている。もはや、押しも押されぬ「北村想の世界」であるといっていい。そのことを充分に認めながら、ぼくが授賞作として推せなかったのは、結局、北村氏独特の「ええかげん」というやつしの方法が、自分の肌合にはなじめなかったせいだろう。だとすれば、これはもう「選考」とか「批評」とかとは次元の異った、芝居書き同士の問題である。そう思い直して、選考委員諸氏の大方の意見に従うことにした。」
清水邦夫
「北村氏の作品には、いつも豊かな才能を感じる。今度の『十一人の少年』もそうだ。だが、いまもいったようにより自在になったぶんだけ気になり、つい自在とは何だろうと思ってしまう。」
田中千禾夫
「銓衡の席上、私は此の作品に就て、「思想を持とうとしない」(但し、思想を持とうとしない思想、が有ること)、と文句をつけたが、読み直して、些か考を変えたのは、早い話、人間の「心」に掛ける保険の提唱者が出現、その尋常ならざる着想に愕かされたからである。」
別役実
「『十一人の少年』という作品は、他愛のないものと言ってしまえば、これほど他愛のないものはない。一種の「いいかげんさ」というものが全体を支配しており、しかしそれが豁達なるものを生んで、これだけは否定しようもない独自の手ざわりを創り出すことに成功している。ほめすぎであることを承知で言えば、志ん生の趣があるのだ。ただし、志ん生のものは「方法」だが、彼のものは「素質」である。私が少しばかり危惧を抱いたのは、その点にほかならない。
彼の舞台が装う独自の手ざわりは、或る意味で確かにひとつの「構造」と言えるものだが、それを更に確かなものにするためには、もうひとつ別の力点というものが必要になってくるであろうと、私は考える。」
八木柊一郎
「別役実氏に言わせると、北村の表現には"いい加減なところ"があるという。井上ひさし氏は、"表現に骨身を削っている"という。私としては、北村の戯曲には不思議な魅力があるという平凡なことしか言えないのだが、その魅力はまさに"いい加減なところ"から出ているのかも知れないし、骨身を削るというよりも、この作者はある切迫したものに絶えず骨身を削られているような気がする。」
矢代静一
「『十一人の少年』は『寿歌』のころと比べて、作者がなにかに向って戦っている姿勢が感じられなかった。豊かな才能をこの作品ではこま切れに売っているように思われた。この若い作者は早くも手だれになったのか。「弱者のアリバイ」という一句が浮かんだ。けれど、こういった私の考えとまったく反対な考の人もいた。批評はむづかしい。」
山崎正和
※受賞作品に対する言及なし。
『新劇』昭和59年/1984年3月号選評掲載





第29回(1985年)
『糸地獄』
岸田理生

選考委員
     評言     
井上ひさし
「女たちを不定形な水に、男たちを縄や紐のような両端のあるものに、そして女たちが紡ぎ出すものを糸(縄や紐の原形)に喩えたとき、『糸地獄』(岸田理生)の成功はほとんど約束されていたと云っていい。不定形な水は地球の老廃物清掃と排熱とを一手に引き受けているエントロピー清浄装置である。一方、〈両端のあるもの〉は物体を繋ぎ合わせ、結びつけ、そして縛り上げるが、加重されれば弱く、プツンと切れるたびにその両端は倍にふえて行く。そして切れることが重なるにつれて仕事をしなくなる。この喩えの発見に作者の力量がある。近ごろにこれほど頑丈ま劇的比喩に成功した新人は珍しいのではないか。」
唐十郎
「岸田理生さんの『糸地獄』はイメージに始まり、イメージに終着して「女でござい」の印象がどうしても強かった。」
佐藤信
「岸田理生『糸地獄』の完成度は高い。何よりも、明確な文体意識と主題の時間系の拡がりの確実さは、近年の戯曲群の中でも出色といっていい。好みの問題でいえば、候補作中最も演出意欲をそそられる戯曲であり、その意味で、本作の受賞に異存はなかったといえる。ただ一点、作中に奔放に用いられた様々な喩と作者との距離の通俗性が、意識的なものとは受け取れず気になった。」
清水邦夫
「語呂あわせめいたいい方をすれば、岸田氏の作品はくり出す仕掛けの糸のさばきが眩惑的であり、ところどころのリズムの強弱がこちらをすっとことばの底の方へひきずりこんだりする。しかし不意にリズムがたち切られるところが数ケ所あった。うまく説明できない。もしかしてこの中断は悪くはないのかも知れないと思ったりもしたが。」
田中千禾夫
「作者が女流であるので、女の主体性の発露が無限に自由である限り、「地獄」にすら到る如き発想が更に痛ましく美しくなるが、但し、情熱は「分析」的であり、虚しい混迷を示さないのが特長である。」 「言葉は方向を定められ、まっしぐらに突っ走るより他はないような線路の如く、一定のリズムを奏でるが、但し線路は常に暖かく湿っているので、その音色は多種多様であり、豊満である。伴奏に般若心経が使われたりするのも効果的だろう。 男への恨みつらみが、どっかに鋭く突き出ていたら、無意識の恐ろしさで、ぐっと引き立つかもしれぬ。」
別役実
「『糸地獄』は、構造的には最も安定した作品であり、文体にもはっきりしたスタイルがあり、趣向においても多彩である。この点での作者の実力は否定しようのないものであろう。しかし全体に、それらのすべてが或る美意識のわく内で揺動している感がなくもない。舞台からこぼれてくる裸の現実感か、虚構の奥から伸びてくる生の情念か、そのいずれかの感触が得られれば、この作品は更に大きな広がりを持ったであろうと思われる。或る情念が有無を言わさぬ演劇的な力になろうとする寸前、言葉でそれを横すべりさせてしまっている場面が、いくつかあったように思われる。」
八木柊一郎
「ここ十年ほどの間に出てきた劇作家たちは、情念の噴出口をもとめるにしろ自己解体そのもののエネルギーを当てにするにしろ、いまの日本の空洞性というリアリティからのみ出発することを余儀なくされており、そのリアリティに即する限り、表現の到達点もまた空洞性の認識という堂々めぐりを覚悟するほかはない。」
「~『糸地獄』の岸田理生は、そのような堂々めぐりの地獄を避け、なつかしいような絶対的なような自分なりの地獄をつくるという仕事をしている。つむぎ出した言葉はたしかに精妙だが、「昭和十四年現在。東京モスリン製糸株式会社亀戸工場」と、はっきり世界さだめをしていながら、作者の美学がその世界のアクチュアリティとの間にすこしのきしみも見せていないのがむしろ気になった。」
矢代静一
「選ぶ場合、私は「演出してみたいな」と感じる戯曲を高く評価する。
そういった取り上げ方では『糸地獄』が一番だった。まず、官能的で童話風な文体が心地よかった。視覚的で色彩感があり、抒情的な無常感がただよっている。
独自のミクロコスモス(小宇宙)を抱いている人だ。」
「母から娘へとつながった妖かしの糸、女の業が繰返し唄われ倦きなかった。題材からみて、日本の風土の土着性を掘り起しているように一見うかがえるが、この作者の感性は西欧的なものである。
どこでもよいのだが、ちょっと引用していたくなった。たとえば、母親殺しのくだり、 「母さんが捨てた前世の糸を娘の私がつないで縛り、がんじがらめの蓮華縄、編んで結んで葬式だ」」
山崎正和
「~岸田氏の『糸地獄』は、糸といふ観念の比喩に深く執着し、それを一貫して多彩に展開して見せた粘り強さが、注目を惹いた。しかも、この知的な操作が歌舞伎の劇場性とうまく調和し、また裏返しの野口雨情と複雑な抒情性とみごとな対比を作ったことが、成功の原因であった。現実の悲劇を寓話的な眼で捉へることと、舞台の美しい様式化が一致して、これは近年稀に見る完成度の高い受賞作だといへる。」
『新劇』昭和60年/1985年3月号選評掲載





第30回(1986年)
『新宿八犬伝 第一巻 ―犬の誕生』
川村 毅

選考委員
     評言     
井上ひさし
「~『新宿八犬伝』の台詞は堂々としていて勁い。平明であって深い。滑稽でありながら真摯である。これなら後楽園球場ででも通用するだろう。加えて主題も思い切り大きい。物語は歴史の手下か、それとも物語は歴史を超えられるのか。こんな途方もない主題を、日本文学史上最大にしてガチガチの物語作家馬琴を引き合いに出して展開するところが大器であり、その目配りのよさには感動さえ覚えた。」
唐十郎
「さて、川村毅の『新宿八犬伝』ですが、『ジェノサイド』『ニッポン・ウォーズ』に比べて、直截な腕力が、原色のボロをまといつけて、更に小躍りしていると見ました。前近代の古典をねじ伏せるために、川村の顔に腰巻が引っかかったのでしょうか、色なくしても猥雑な川村の空間に、どろりとした色が応援にかけつけた具合です。
矢代静一氏は、「この作家はバーバリズム一本槍で、バーバリズムをとったら、(いつかとることも必中)意外に普通の人になってしまう」と説かれたが、川村には普通という位置が分からず、これが普通の模写である故に、普通に立ち至らず、成功か失敗か、元気か不元気かしかないように思えます。「普通になったよ」と言われて、気が狂いかける川村も見たいもんです。」
佐藤信
「根本的な疑問がある。エスケープは他者と共有できるものなのか?あらかじめ、ドタドタという自己批評に彩られた逃亡の身振りは、「豊か過ぎる現実」のひとつの反映に過ぎないのではないか?
川村毅『新宿八犬伝』に希望を託すのは、逃亡の過程で彼が意識している、歴史というもうひとつのフィクションへのこだわりだ。」
清水邦夫
「昨年の銓衡の席上でも話題になった人だが、離陸の鮮やかさ、浮力のダイナミックさは確実に今年の方がいいように思える。正直に告白すれば、最近の候補作品には無意味に長いものが少なくないように思えるが、この作品などは読んだあと、やはりこれだけの長さが必要だったのだなと納得させられる。それに作品にたちこめる悪の匂いも濃厚で、これなら長距離飛行も可能である。欠点をあげるならば、といいたいが、今はことさら欠点はない。」
田中千禾夫
「「新宿」という有名な盛り場は、解放を求める若者達のメッカであるらしい。私など年寄りの、そこに寄せる好奇心を十分に満足させてくれるのが、この華やかな絵巻物である。好色的な特徴も、排泄作用として当前であろう。」
別役実
「劇作家が不調だと、集めてきた材料の意味と、それらをつなぎあわせる論理ばかりが見えてしまう。劇作家が不調だと、材料はすべて手触りで感じとられ、それを取り扱う手つきと、身ぶりと、息づかいのリズムだけが、我々に快く見えてくる。この作品がその良い例であろう。この作者は今、絶好調なのである。」
八木柊一郎
「川村毅は、私としてはすでに『ニッポン・ウォーズ』を去年の授賞作として推したが、『新宿八犬伝』で力量はいっそう鮮明になったと思う。」
「~『犬の誕生』は八房の怨みと愛がのりうつったように一気に書き切っている。川村にはこの世代の作家には珍らしく斜めにかまえたところがない。現実の歌舞伎町の猥雑さを観念的にいじくることなく、あくまで正面向きだから、仁、義、礼などの八行を、遊、戯、性などに替えても、"正義"のイメージは不思議にのこる」
矢代静一
「溌剌、躍動、バーバリズムの、若者特有のエネルギーで満ちあふれている。一気に読了した。昔読んだ波乱万丈の少年講談の娯しさがあった。作者はアンファン・テリブル(恐るべき子供)である。」
山崎正和
「~主題を筋として展開していく腕力に優れ、自作に没頭する集中力に秀でた点を認め、川村毅氏の『新宿八犬伝』を受賞作とするといふ委員会の多数意見に、私としても反対しないといふ態度をとった。」
『新劇』昭和61年/1986年3月号選評掲載




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